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津山で活きる鶴山男ブログ

会者定離-かりそめの『知』

ふと思いました。

今まで、このブログに何度も書いてきた『離れない』という悩み。

でも、よくよく考えてみると、離れなかったことって一度も無いってことに気付きました。

会者定離

【離れ】とは
 「会」が完成されると「離れ」が生ずる。「離れ」は発射である。すなわち体の中筋から左右に開くように伸張し、気合いの発動とともに矢が離れていく状態をいう。
「会」と「離れ」は、「会者定離」という仏教語から転用されたといわれるように不離一体のもので、会では力がまとまり、充実して、一本の矢に移され、「離れ」を生ずるのである。
したがって、「離れ」は自然の離れでなくてはならない。離すのではなく、離されるのでもない。
 これをたとえていえば、葉末にたまった雨露が自然に地に落ちる-すなわち、機が熟して自然に離れるものでなければならない。

             - 「弓道教本」 全日本弓道連盟より -

『離れない』という悩みが生じた理由は、はっきりしています。

「会」の時、弓の力に筋力が負けて、体も心も苦しいからです。

でも、『離さなくていい』んだと考えることができたら、体はしんどくても、心のしんどさは少なくなるのでは?と思いました。

次の練習日には、

離れなくていいんだ!離さなくていいんだ!と思ってみます。

体がしんどいのは当たり前。
心はのびやかにいきたいものです。

会者定離

この世で出会った者には、必ず別れる時がくる運命にあること。
この世や人生は無常であることのたとえ。

諸行無常

この世の万物は常に変化して、ほんのしばらくもとどまるものはないこと。
人生の無常をいう仏教の根本的な考え

「会」の時に、『会者定離、諸行無常』と、何度も心の中で唱えてみることにします。

・・・・・。

次の日。

練習に出かけました。

かりそめの『知』は、繰り返し押し寄せる波のような『現実』にぶち壊された~。

・・・。

やっぱり離れないと苦しい。

離したい、放したい、はなしたいんだ!!!!!

・・・・・。

『離れな~い!』

さてさて、

苦しいって、本当楽しくないんだもん。
ただただ苦しくて、そこから逃げ出したくなるんだもん。

人はそれを『根性なし』と呼ぶ・・・。

修行してるって感じがプーンと漂っているこの頃。

まあ、これがいいかなとも思うわけですが・・・・。

で、

また新しいかりそめの『知』をさがしてみるかなあ。

次のかりそめの『知』は、

「離れは肘を後ろに押すことで出る」

五十肩で、凝り固まっていた右肩ですが、この1年でだんだんと動くようになりました。

若い頃はもっと・・・、と昔を美化しているアラカンですが、続けることで次第に柔らかくなってきてることを感じています。

だったら、今こそ、

「離れは肘を後ろに押すことで出る」を意識してみることにします。

正直なところ、離れの時に肘がやや前方を向いている・・・と、気になっていたのですが、
気持ちは後ろに押す

まずは、イメトレからですね。

ではでは!