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津山で活きる鶴山男ブログ

首なし地蔵

ヒゲクジラが発見された場所から、吉井川沿いをもう少し西へ進みますと、『美作國二ノ宮 髙野神社』へ着きます。この神社の歴史もとても味わい深いのですが、また別の機会で。

髙野神社から西へ100m程進むと、そこに『首なし地蔵』があります。

何も知識が無いときに見ると、ドキッとすると思います。
首から上が無い5つのお地蔵様。
でも、これには深い理由があります。

江戸時代、厳しい年貢に苦しめられていたお百姓さんたち。
いろいろな工夫をして、生産高を上げようとしていました。
しかし、厳しくなる年貢・・・。
天災もあったり・・・。
どうにもこうにも暮らしていけないとなった時、命を懸けて藩主に訴えた・・・。
それが百姓一揆です。
そして、このお地蔵様の由縁の百姓一揆は山中一揆と呼ばれています。

当時、百姓一揆は、たとえ成果を上げたとしてもリーダーの処刑(死罪)は必須。
まさに命を懸けていたのです。

私が『首なし地蔵』を知ったのは、今から30年ほど前で、山中一揆のフィールドワークの一環でした。江戸時代の百姓一揆の掘り起こしを行っていたのです。

地蔵堂の説明文を転記します。

 首なし地蔵

 西側から約一.五米の地蔵「日本回国、享保十一年三月(一七二六)供養施主新田村是休」と記してある。次に高さ約六十糎の地蔵五体(頭部がない)が並ぶ。続いて力士墓が立つ「浜風岸右衛門墓、門弟中、文化十二年十一月七日(一八一五)金剛力院弧年量哲信士」を刻む。東側に高さ六十~七十糎の石碑(上部が折損)「文化十三年(一八三〇)寅八月吉辰津山、本納大乗妙典日本大社」とある。
 新田村は、現在の津山市新田。頭部のない五体の地蔵は、津山城松平二代目城主松平浅五郎侯(幼少六才)時代の事、享保十一年三月(一七二六)山中一きの首謀者として、滑川口吉井川原で処刑された仲田村池田徳右衛門、見尾の樋口弥治郎と、津山城の獄中にて死刑にされた東茅部村七右衛門とその子喜平治、そして川崎の刑場で処刑された土居村忠挫衛門と富東谷村谷村與七郎の六名であるが、一体少ないのは、山中の遺族が持ち帰ったものとおもわれる。
 大和町内会において、平成八年屋根を建造、毎年地蔵祭りで懇ろに霊を弔っている。
 平成八年三月、津山百景(津山市)に選定されている。

  平成二十一年十月吉日
   設置者
   二宮歴史文化財顕彰会

ああ初めて出会った時は屋根が無かったんだっけ~。
ずっと大切にされてきているんだなあ。
良かった。

山中一揆の息吹を感じながら、手を合わせました。

今もこうして大切にされているのを見ると、何かホッとします。

アラサーの頃、まだ世の中に情報(ネット)があふれていなかった頃のこと。

メインテーマは、『歴史から学ぶ』
サブテーマが、『民衆の歴史の掘り起こし』
でした。※志を同じくする方々と一緒に…!

で、調べようと思ったら、主な方法は3つ。
➀先人のお話を聞く。
②書物で調べる。
③現地調査をする。=これがフィールドワークです。

うんうん、その当時はフットワークが軽かったなあ。※体重は最高に重かったけれど…。
よく③のフィールドワークに出かけていました。

一緒にフィールドワークに出かけたメンバーとよく議論していたのは、
『誰の立場に立って行動するか?』
ということでした。

例えば、山中一揆
津山藩(権力者)の立場から見るのと、一揆を起こした百姓たち(民衆)の立場から見るのとでは、見える景色が変わってきます。

ふう、話し合いで解決できないってのは理不尽極まりない…。

その後、吉井川をもう少し西へ・・・。

滑川口へ着きました。

「ここで山中一揆の義民の二人が処刑されたんだなあ。」
と。

歴史を紐解けば、世界は弱肉強食・・・。
そして、今は・・・。
そして、今も・・・。
・・・どっち?