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津山で活きる鶴山男ブログ

仁木永祐先生と籾山黌

今日は、まず津山市役所に行きました。
退職して1年が経つので、国民健康保険に加入(切り替え)する手続きをしようと思ったからです。
しかし、
「4月からの加入手続きは、3月の最終週から行います。」
とのこと。
残念ですが、仕様がないので、後日。※3月27日(月)以降。

外に出ると、雲一つない晴天でした。
花粉の量が例年より格段に多いとの情報もあります。※極度の花粉アレルギー・・・。
が、せっかくなのでお散歩することにしました。

さて、「美作の板垣退助」ってだれでしょうか?

【答え】仁木永祐先生

籾保にある籾山黌跡地と傍らの顕彰碑が目的地です。
市役所から、目的地までをマップファンでルート検索してみると、距離が4.1kmでした。

また、すぐ近くに『万燈家』といううどん屋さんがあるので、そこで久しぶりに食べてみようと思いました。

『万燈家』に着きました。
定番のカツどんセット!

とてもおいしかったです。

次に、籾山黌跡地と顕彰碑

場所は、籾保交差点(信号有)の北側の小高い丘のところです。

仁木永祐先生の偉大な功績に触れることができたことは収穫でした。
※上の写真の左にある説明板に詳しく書かれていました。


江戸末期、洋学を学ぶ若者が増えました。(津山にもたくさんの有名人がいますね。)
その多くは、江戸や京、大坂へ出向き、そのまま都会で活動するというパターンだったとのことです。

仁木永祐先生は、18歳で江戸に行き、箕作阮甫・宇田川興斎に入門し、洋学を学びました。
その後、郷里に帰り、『籾山黌』という学問所で漢学や医学を教え、多くの門人を育てました。

『籾山黌』の中から自由民権運動で活躍する人材が出ています。
→立石岐(たていしちまた)、井手毛三(いでもうぞう)・・・
→地域の医学向上に尽くした中島大次郎、実業家の米井源治郎・・・

その後、自身も自由民権運動の指導者として活躍されています。
また、岡山県会議員に選出された際は、吉井川改修問題や溜池敷地民有下げ戻し問題に奔走したり・・・。

私は、仁木永祐先生の生き方に、清々しさを感じました。

なぜなら、仁木永祐先生は、いつでも立ち位置がぶれていないのです。

地域の人々の視点に立ち続けた、民衆のリーダーでした。

籾保の地で。

そこに純粋に驚き、感動いたしました。